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​八ヶ岳ニュース

2011年7月26日〜28日『被災地訪問の旅』

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全世界のみなさんありがとう

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●痛みがわかるからこそ、支援金を被災地に送る福島人の強さに感激
絵に描いたような幸せそのものの河原家。新しい下見ばり風かわいらしい白い家。壁紙も家具も女の子二人の趣味がいっぱい。木製デッキもパパの手作り。そしてロッポも家の中の専用ソファで幸せそう。そう、放射能がなければ!!!犬三匹と子供3人、大人2人で散歩に行きました。久々だそうです。草の上は高いよ。水たまりは駄目だよ。と4歳の子に指導される。パパ特性の木製デッキも高い。コンクリートの溝。雨樋の下など。気にするときりがない。窓はあけずにエアコンは必須。体育は体育館。運動会はどうするか未定。
今日も疎開組とのお別れ会で大泣きしたらしい。どんどん減っていく人々。でも福島を愛する人々。最後に渡されたのは、これから行く被災地への支援金でした。福島県人を誇りに思う。ロッポ!!子供たちを守ってくれよ。

●石巻に突入
興支援地図を片手に市街地を見ていくと、同じ浸水地域でも全く状況が違うことに気がつく。水田や新市街地でまったく被災を感じないところもある。IC近辺は、全く活性化した新規郊外型ショッピングセンターが展開している。初めて入ったスシローは、普通においしかった。しかし、旧市街地を抜けて徐々に商店街の一階部分の被害が見えて来た。そして、海側に近づくにつれてまったく建物の形もなくなった。
がれきらしいものは、片付いているようだが、中途半端な家が時々残っている。写真でしか知らないが原爆の後のような風景があった。
何回も来ている斉藤に任せておくとつまらないが、さっさとトールの活動している湊中学校に到着。周囲にはほとんど住める建物はない。避難所の人たちも仮設への入居が徐々に決まっていき、8月6日には炊き出しも終わるらしい。今まで長い間よく頑張ったと思う。そして7月31日に1万個の灯籠流しを行なう。私たちと入れ替わりで、新田クンと長男一歩が、ボランティアに入る予定だ。
でも、結局、誰に聞いてもトールがどこにいるのかわからず、ケータイも通じないので、残念ながら会えずに気仙沼に向かう。
(その後、一歩も3日間のボランティアを終え何かを持って帰った)

●峠を越えると早くも車の残骸!
高速を進み北上する。山を越えて海に出ようとすると、緑濃い山間部にどうしたらこうなるのかわからないメチャクチャな車が不自然に置いてあった。しばらくすると全く不自然でなくなった。南三陸町の扇状地に至ったようだ。見晴るかす被災地の風景。こんな風景は原爆投下後などの戦争写真や関東大震災の写真くらいでしか見たこともない。近づくと生活の痕跡が残る。南歩はめちゃくちゃな車や壊れたパソコンに目を奪われる。驚くのは早い。こんな風景が延々と続き、入り組んだ海岸線の峠と思われるところの家までもが被災しているのに驚く。
『こんな高いところまで?誰も想像できないよ』
「津波浸水想定区域ここまで」とある看板が本当にむなしい風景だ。『言ったこっちゃない。ここにちゃんと書いてあるじゃないか』と強く語っている。本当に確かにちゃんと書いてある。
だから何だ。
上は助かり、下は全滅。不条理きわまりない風景がどかんと心にぶち当たって来た。跳ね返すこともできず、かといって深く納めることもできず。潮に漬かった木は、赤黒く立ち枯れている。

●延々と被災地が続き、階上公民館に!!
『全世界のみなさんありがとう』という看板に涙。
驚きも少し慣れてきた頃、対向車線は大型ダンプが渋滞をして来た。海岸沿いのがれき集積場が近づいて来たのだ。もうもうと土煙が上がっている。もうこんな状況が相当長く続いているのだろう。
かつて斉藤がおおきな衝撃を受けつつ、心うたれながら、絵本と駄菓子を運んだ公民館に到着。ドキドキしながら、受付に行くと当の佐藤信行さんは、がれきの処理作業中とのこと。子供達も一人しか残っていないらしい。せっかくだから、作業が終わるまで、どこかで待つことにする。今日は、夜中も走って、明日の南歩の吹奏楽部の練習に行くことになっている。強行軍だが、そこは一目でもあっておきたいと思う。4日前に届いた直筆の手紙と資料と写真を編集してくださったお礼を言おうかと。

●いよいよ対面
時間つぶそうとした矢先、呼び止められた。小五の伊織クンが玄関に出て来てくれた。おもちゃを受け取ってくれることになった。『君に託すから、仮設に移ったみんなにも渡してくれ』と段ボールいっぱいのお菓子とおもちゃを渡す。早速ゴムで飛ばす飛行機を作って遊んでくれた。
そして佐藤さんが出てきた。想像通りの優しそうなおじさんだった。部屋に通してくれて、紙コップにペットボトルのお茶を出してくれた。支援者が張り出されており、みなさんのおかげだという。お礼と励ましも上っ面っぽくて、恥ずかしい感じがする。何を言っていいのかわからない。こんなのんきな人がここにいていいのか?居ずらい。

●現場を案内してくれるという
伊織クンともお別れして、現場に向かうと、激しい雨が降って来た。高台と思われる場所からの眺めは、建物も畑も海に飲み込まれたと一目で分かるが、広い杉の下地区が広がる。高台のケータイの鉄塔は何もなかったように丈夫だが、皮肉にも柵があって入れなかった。その隣の木に捕まって助かった人が二人いるという。この高台まで飲み込んだ津波は20m。あきれてものも言えない。
農業をやっていた佐藤さんの畑は、潮をかぶった上に、がれき置き場になり、あと3年は使えない。がれきの整理の仕事をし、なんとかしのいでいる。3年後からのスタートだ。63歳の再出発。

仮設に入っても、連絡くださいとだけなんとか伝えて別れた。

●2日間何もできずにすごした。
ただ、伊織のために、階上公民館のみなさんのために、なにかできるか考えようと思います。

●そして福島民報が届いた!!!!
帰った二日後。福島の河原さんからメール便が届いた。
この写真を取った27日の朝。そこに置いてある福島民報の『あぶくま抄』の欄に斉藤のことが載っていることなど、そのときは夢にも思っていないのでした。すぐに送って来て驚いた!!!天声人語的な扱いの欄にフィールドライフの福島編を暖かく評価して下さってありがとうございます。思いが通じていることに感動しました。

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SHIRO_PAST 01
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